前田慶次。麻雀でもパチスロでも負け戦を好む、当代一流のかぶき人である

 私と卓を囲む麻雀使いはかなり限られる。なぜなら私はこの一年かそこらで、やっとまともに上がれることが出来るようになった程度の初心者だからだ。――いや、これでは意味がダメな人ってことになるのではないか? 訂正。ええとね、これまで麻雀を打ってなかったのでそうした知り合いが少ない、という事さ。

 さてそんな私だが、いっぱしに麻雀したいと思うことが最近結構ある。ならばハンゲームでもやればいいじゃない、と言ってくれるなおっかさん。私は……私は、どうにもこうにもネットの麻雀が恐ろしく感じられるという、アホという生物の最後の世代なのだ。

 そんな私の手をとり、赤いボタンに重ねて「これを押すとロンだ」と教えてくれたのが、我が麻雀教官(激スパルタ)のO教官(仮名)である。役すら未だにおぼつかないところのある私を、躊躇なく狙い打ちにしてくれる最良の教官だ。牌を選ぶのに悩んではグラブユアパンツ。チョンボをしでかしたらキルユーファックオール。教官の愛のムチによって、真っ赤な千点棒を致死量吐き出した事など数え切れない。

 さて、さっきの赤いボタンを知ってるか。セガネットワーク対戦麻雀、MJ4のことだ。

 勿論形態が若干コジャレたものになろうとも、戦闘力はさして変わることはない。今はまだ7級、地元のひなびたゲーセンでぺちぺちと打っているところだ。しかしある程度気楽にプレイすることで、やっと「麻雀というものがわかってきた!」という錯覚を得られるくらいになった。なんという華麗なる成長。自信とは根拠無き楽観の事さ。

 そんな羽化登仙を遂げた私が掴んだ麻雀の真理、これをそっとお伝えしよう。

 真理:麻雀とは人生である。

 確率は麻雀の勝率を教えてくれる。にもかかわらず、勝つ人と負ける人の比率は常に、常に――絶対的非対称を描く。

 しかし、確率という『敗北の運命』をやすやすと、神懸りなまでの力でねじ伏せる『いくさ人』であること。これが、雀士というもののふの本懐であるようだ。

 三歩下がって師の影踏まず。ああ、やっと影が見えるようになったところのようだぞ、教官。